chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

昔のこと

カゼで弱ってるときはなんだか脈絡もなく昔の事を思い出したりするもんです。
 
一度だけ、両親が結婚当初住んでいたという家に連れていってもらったことがある。まだ小学校の低学年、昭和53年頃の話。
 
狭い。今でいうと車3台分の駐車場ぐらいの敷地。1階は農作業するスペースで、その壁はコンクリートブロック、天井はコンクリート造りだった。しかし子供心にもひどく凸凹したコンクリート。たわんだ木枠の木目の跡がコンクリートに残っていた。親父が自分たちで天井のコンクリートを打ったのだといい、その苦労話をひとしきり聞かされた気がする。コンクリートといっても今時の工場製のコンクリートじゃなくて、セメントに手作業で石や砂利をまぜたようなものだったに違いない。今思えば鉄筋が必要量ちゃんと入っていたのかも不安だ。おそらく建築されたのが昭和30年代始めなので、建築後20年とちょっとしか経って無かったことになる訳だが、その割には風化が進んでいた。
 
2階は普通に木造だった。6畳1間だけ。裸電球がぶら下がっていた。炊事場も風呂もない。炊事場は、たぶん当初は1階にあったのが、私が見たときには撤去されていたんだろう。なにしろ薪で湯を沸かす時代の話なので、コンクリート作りとはいえ2階に炊事場は無理な時代だったのだ。風呂は、当時はまだ風呂屋さんがあったらしい。6畳1間の部屋にはなにもなく、がらんとしていて、すこしカビ臭かった。引っ越した後、ほとんど誰も出入りしてなかったんだろう。外観は倉庫にしか見えないが、部屋のなかはそれなりにちゃんとした造りだったと思う。親戚や友人には大工や左官も大勢いる親父のことなので、うまくやってもらったんだろう。
 
戦後の食糧難で一時期農作物が高値で取引されたおかげで、農家は金銭的には余裕がある時代だったとはいえ、今思うと、戦後10年そこそこ、20代そこそこで、自分たちの家を建て、しかも1階部分をコンクリートでというのは、なかなかチャレンジャーな親父だったと思う。
 
おばあちゃんが「いつでもここに帰ってきていいんだからね!」という意味の方言を涙目で繰り返していたのも印象に残っている。おばぁちゃんにとってもよほど思い入れのある家だったのだろう。 ・・・引っ越した後に住んでた家は今風に言うと4DKぐらいだったから、子供心に「それはない」と思ったけれども、涙目のおばあちゃんには何もいえなかった。
 
それから、親が説明してくれる以上の事は聞けなかったが、この部屋で姉は生まれたことになる。その姉は今52歳である。
今からわずか半世紀前の恋人達は、そんな裸電球のしたで愛を育んでいたのだ。
 
 
 
  
子供の頃は遠い昔の話と思っていいたが、この年になってみれば、私が生まれる僅か15年ほど前の話である。たった15年。驚くわ。
家の印象だけは残っているのだが、その家に行ったのはその1度きりで、どういう道順でどこにあったのか、自分ではもう思い出すことができない。流石に今はもう解体されて無くなってるんじゃないかと思う。
ちなみに、家庭の照明の主役が本格的に電球から蛍光灯に切り替わったのは1973年頃のオイルショック以降のことらしい。そういえば、私が幼い頃の居間の蛍光灯はまだ新しかったな。記憶には無いけど、私も裸電球の下で生まれたクチかも。
 
 
 
 
 
 
 
半世紀後、私はエアコンの聞いた部屋で、パソコンをしながら、24時間営業のコンビニで買ってきたおかゆを食べて、1人でカゼに苦しんでいる訳だが。これが経済成長と技術革新の成果というのが実態なんだな。私にとって。