chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

お金の話つづき

PICSYからの流れで。 http://d.hatena.ne.jp/chintaro3/20100407/1270646353
 
「そもそもお金とは」みたいなことを考え始めて、んなこと言ったって私が知ってるお金の歴史にまつわる話なんて、学研マンガシリーズ「お金のひみつ」のレベルから何も進歩してないんですけどあっはっは。
 
たまたま「うっかり携帯の引き落とし口座が空ですみません事件」というのが現在進行中。その対応を病み上がり早々済ませるにあたり、その督促の手紙の文言というのが、とても高圧的なのを見て、なんか面白いなぁ、と思ったんだよね。
 
そりゃまぁ、確信犯的に払わない人に対しては、そういう対応しないと、なめられたら負け、みたいな世界なんでしょう。けど、だって高々2000円すよ。高々2000円でそこまで偉そうな文言を、並べたてまつるかと。大げさすぎやしないかと。あぁ、金額の問題じゃない。確かにね。1円盗んでも泥棒は泥棒。それと同じね。確かにね。
 
で、その高圧的な態度の根拠は何かといえば、これはもう「国家権力」なわけですよ。「払わないつもりならこっちは法的手段に出ますよ、そうなれば国家権力は私たちの味方ですよ」という。そうは書いてないけど、そう書くことができる、という絶対的な国家への信頼感が、そういう高圧的な態度の背景にあると考えられるわけ。
 
それをもっとストレートに言い表すならば、そもそも「お金」というのは、「国家権力の断片」であると言えるんじゃないか?と考えつくに至った。ここでいう国家権力というのは、警察・公安・自衛隊・税務署その他もろもろの行政サービス・・・だけではなく、日本人の常識に照らし合わせて判断される「社会的制裁」みたいなものも含まれると考える。裁判の時の刑の重さに勘案されるぐらいだからね。
 
・警察官が映画館の中に居る犯人を捕まえる場合
お金と国家権力が、もし完全に独立分離しているのならば、たとえば警察官が映画館の中に居る犯人を捕まえるためであろうとも、タダで映画館に入場出来ることの理由には成り得ないはずだ。警察と映画館は、資本関係が有るわけでも何でも無いのだから。「政教分離」に習っていうなら「経済権力分離」とでも言おうか。しかし現実には、警察官が法的な根拠を持って公務として映画館に踏み込む場合、入場料を支払う必要はない。つまり、この場合、警察は国家権力そのものの一部として動いているので、「お金という国家権力の断片」など必要ないのだ、と考えると府に落ちる。
 
・借金苦に自殺してしまう人の問題
これも考えてみれば不思議な現象で、「借りたものは返すのが当たり前だ」という論はその通りだと思うけど、「返せないから自殺しました」っていうのは、まったくおかしな話なんだよ。返せないと貸した人が困るのはそのとおりだけど、貸した人が死んでしまうのを借りた人が身代わりで死ねば助かる、という話では無い訳で。
なのに、なんでそこまで気に病んで自殺するような人が出てしまうのか。・・・見えない国家権力の影じゃないですかね。国家権力の恐怖が、そうさせてしまうと考えればわかりやすい。ここでいう国家権力も、社会的制裁まで含みます。そして、「社会的制裁」の「社会」には、自殺してしまう自分自身も含まれている。つまり自分で自分を制裁して自殺してしまうという話なのかもしれない訳。
 
・政治とカネの問題
結局、政治家になろうと思ったら、金持ちが有利なんだよね。鳩山首相が良い例じゃないですか。お金をたくさん持っている=国家権力の断片をたくさん持っている=人より沢山国家権力を持っている・・・というのと同じ位置からのスタートになるんですから。
それから、汚いお金と汚い権力、これもまた切り離せない関係。なんかもうすごく府に落ちる。
 
・政局が揺らいでも、お金の価値は揺らがない訳だが?
つまり政局と真の国家権力は別のところにある、という事なんでしょう。曲がりなりにも日本は法治国家だから、首相が「あいつ嫌いだから」なんていう私的な理由で、その人を警察に捕まえさせるなんてことは出来ない。しかし、たった1円でも盗みをはたらいた人は、窃盗罪で警察に捕まえられるかもしれない。総理大臣ですら不可能なことが、たった1円で可能。お金すげー。つまりその「法治国家における国家権力」というものの、かなり本質的な部分を占めているのが、実は「お金そのもの」なんじゃないかとも思えてくるのだよね。
 
・大学などの研究者に政府が多額の資金提供をする件
もし、研究が純粋にそれのみを追求しているのであれば、国家権力とは独立した、フリーな立場であるべきだ。仮にお金を一切使わずに研究が出来るのならば、それが一番だということになる。しかし、実際には多額の資金が必要。それは国家権力の力を借りるということであり、借りを返すためには何らかの成果が必要だ。そういう所に、ニセ科学的なものが蔓延りやすい温床があるような気がする。
 
嫌儲
となってくると、いわゆるニコ動などでみられる「嫌儲」という動きは、「国家権力からフリーであろうとする姿勢の現れ」と解釈することもできるのだよね。これも、ニコ動の主なユーザーが若い世代であることを思えば、素直に理解できる。
無料だと、消費税も法人税所得税もかからないから、税収ゼロなわけで、税収が無いと成り立たない政府にしてみれば、すごく困った話なんだよね。政府が困る=権力者が困る=メシウマ!みたいな構図。タダで作った本人はもっと困ってるけど!
一方、ここでいう「国家権力」が「社会的制裁」までをも含むのだとすれば、お金儲けに走る人を集団で排除しようとするような動きというのは、いつのまにかその集団自体が、狭いグループ内における「国家権力の代替物」のようになってしまっているという事でもある。これはすごく歪んだ、悲しいねじれ現象だよね。「権力を拒否していたら、それ自体が権力になっていたでござる」
 
 
ごちゃごちゃ書いたけど、要するに問題は、俺たちはこの先も、「国家権力の断片たるお金」に依存して生きていく以外に道は無いのか?ということだ。もしそうなのだとしたら、「お金2.0」とは「国家権力2.0」でもあるということだ。こりゃ困った。
 
面白いのは、経済学と言うのは、こういうお金が持つ「国家権力」的な面を一切表に出さずに論じることが可能だと言うことだ。それもまたお金の正しい一面なのだろう。そういう所に、お金というものの可能性を探っていくしか無いんだろうなぁ。