chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

なぜ今「所得倍増計画」を発動できないのか 

 
ネタ元:
「日本は家計の教育費負担が高い」文部科学白書で明らかに
http://d.hatena.ne.jp/high190/20100622/p1
 
この白書では、公的支出を増やすべし、という結論になっている。確かに海外と比べても日本の教育への財政支出は少ないよ、という資料もいままで沢山見てきたことだし、その結論に同意したい気持ちが無いわけじゃない。
 
しかし現実には、「養育費・教育費が高くて大変」という以前に、「養育費が高くで子供を作れない」「そもそも収入が少なくて結婚できない」と言う人が沢山居るわけだ。教育への財政支出は、経済的理由で子供をつくることを諦めた人、結婚を諦めた人を救うことが出来ない。
 
でだ、「経済的理由」によるそういう悲劇を無くそうと思ったら、まず最初に来るべきは労働者の所得をいかにして増やすかという命題のはずだ。しかし、聞こえてくるのは労働者の給与を目減りさせることにばかり熱心な経営者や政治家の態度である。消費税しかり。派遣社員問題しかり。

参考: 
マツダ、ファミリア殺人事件 --- トヨタ期間従業員に行こう
今後,非正規労働者は,交通事故に遭ったときの損害金も,少ししかもらえません by交通専門部裁判官ら@法曹時報62巻1号81頁---ボ2ネタ
  
こんな日本からは想像もつかないような政策がその昔あった。「所得倍増計画」とかいうやつ。
所得倍増計画 --- wikipedia

所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)とは1960年、池田内閣の下で策定された長期経済計画である。閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という。この計画では翌1961年からの10年間に実質国民所得(国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は驚異的に成長した。

 
実質GDPの伸びで測っているので、インフレで名目賃金だけ伸びたという訳ではない、と言うところがポイント。
まぁ、この時期の日本の労働環境がいかにブラックで凄まじいものだったかを想像すれば、単にこれを偉業と褒め称えて済ますこともできないのだけれども、とにもかくにも政治がそういう事を主導して、実際に実現したのだ。
 
先の白書には、「子ども2人が私立大学に通っている場合は、勤労世帯の可処分所得の2分の1超を教育費が占める」とあるらしいが、お父ちゃんの給料が2倍に増えれば、相対的に教育費の割合は1/4に減るだろう。そういう解決策が模索されてしかるべきではないのか。
なぜ、今の日本の政治家や行政は、こういう旗を掲げることができないのだろう?
 
思い当たること:
・高齢者が蓄財に熱心で消費しない。
・消費が旺盛な若い人にお金が回ってこない。
・しかし若い人にお金が回るようになれば所得倍増(実質GDP2倍)が可能なのか?というと、どうもそうは思えない。例えば国内で消費する住宅や自動車の生産総額が今後10年で2倍になるなど有りえるだろうか?
・人々が求めるものがお金や物じゃなくなってきた?
 →信用、安心、将来の生活保障などの重要性が増してきた
  →学歴などの無形のものに出費する
   →教育費の高騰?
 
という構造がもし、あるのだとすると、つまり教育費というのは実は「高価であること」に価値があるのであって、財政支出で誰でも受けられる金額になってしまえば、その経済的価値が失われてしまうのではないのか?という疑問が出てくる。
いや、本来なら、大学での論文などの業績でもって、社会的地位なり名誉なり、あるいは就職先なりが与えられて然るべきだと思いますよ。しかし、実際はそうじゃないじゃないですか。大学の卒論と就職先の業種に、何の関連もない学生なんて珍しくもない。彼らが欲しかっているのは「大卒」の肩書きであって、その中身ではないのだ。この問題が、教育への財政支出を増やしただけで解決するとはとても思えない。
 
そんな所に税金をいくらつぎ込んだって、役所の利権が増大する以外のメリットなど何も期待できないだろうと言ったら言い過ぎでしょうか。