池田先生がこんな記事を上げてくださいました。
資本論の哲学 --- 池田信夫blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51486854.html
ここに挙がってる本を読んでみたほうが良いのかしらん。
素人の理解度だと、こうなる。
「抽象的人間労働」という価値実体に依拠して価値論を展開した矛盾を問題にしている。
「価値実体」なんていう言葉がもうなんかヤバイよね。
価値を安定させているのは、日々の変動を通じて一定した労働時間という社会的な尺度だ、というのがマルクスの批判だ。
これはマルクスが間違っており、
給料が労働時間に比例する仕組みの中で働いている人にとっては、その範囲内で買うことが出来る物の値段が制限されてしまい、結果的に値段が安定することになるので、そんなにおかしなことは言ってないと思うが、世の中そういう人ばっかりじゃないからなぁ。むしろ世の中を主体的に動かしてるのは時給で働いてない人だ、っていうことを重視するなら、そういう見方になるのかも。
個々の価格とは別の抽象的な価値という実体はどこにも存在しない。
この「実体はどこにも存在しない」っていう言い回しって難しい。実体とは何ぞや。物質のこと?「価値という物質はどこにも存在しない」だと、イメージとしては解りやすい。でもここでいう「実体」というのは「物質」より広い意味なんだろうなぁ。「物質」ではない「実体」って何だ? 価値が物質でなくてもよいなら、「個々の価格とは別の抽象的な価値は、私の心のなかにあります」だって良いことになるんだがまぁ、そんなこと議論しても経済学の話にはならんよね。
「モナド的な個人の意識をいくら集計してもインターモナディックにしかなりえない」
曖昧にしか理解出来ないが、たぶん東先生は、この点について違う見解をもってそう。SNSやツイッターを政治に利用しようとかいう、あの手の議論ね。
価値実体を否定するポストモダン
例えば「黄金」に本質的な価値があるわけではない、とかいう話のことかな。
現実にそういう価値がなぜ成立しているかを説明できない
そうそう。「生きることには価値がある」っていう主張をどうやって証明するかって話につながるね。
根拠のないはずの価値がなぜ信じられ、特定のイデオロギーが多くの人々に共有されるのか
「常識」とは何ぞや
モデルがどうやってでき、社会的に共有されるかについては何も語っていない。
「常識」が生まれる理由や過程は不明。ふむふむ。
価値は本質的に不安定なもので、それを支えているのは信用秩序などの「社会的な事前確率」が共有されていることだ。
「価値は本質的に不安定なもの」ときた。「価値を支えているのは信用秩序など」の「など」ってミソだね。「信用秩序」だけが価値を支えているわけじゃない。「信用秩序」というのも「行動」の1つ。行動を伴わない信用秩序は無い。「価値ある行動」の中に「信用秩序」が含まれる。
「生きることの価値」という話とからめると、「生きることの価値も本質的に不安定なもの」と言えるのか?・・・言える気もするね。戦時中の日本人の命の価値と、戦後の日本人の命の価値は、ずいぶん変化した。 価値が行動によって決まるのだとするなら、行動が変われば価値も変わる。ふむ。
それがハイパーインフレなどによって崩壊したとき、市場も崩壊する。
これ、鶏と卵だよね。ハーパーインフレになったから信用秩序が崩壊するのか、信用秩序が崩壊したからハイパーインフレになるのか。でもまぁ、現実に、卵は着々と産み落とされて、大事に大事に暖められて居るわけだけどね。そう、膨らむ一方の国債のことね。雛がかえるのは時間の問題。
対策を講じるとするなら、雛がかえるのは避けられないので、その後にクレイジーな行動をとってしまう人々をいかに素早く通常状態に戻すか、という事が問題だな。通常状態とは何ぞや、というのがまた難しいのだけど。
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少し昔の記事
心をつくる --- 池田信夫blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301400.html
脳はまず外界のモデルをつくり、その予測を経験によって修正しながら知覚するのだ。
これはロボットにカメラを積んで視覚情報を処理させようとかする例を考えるとよくわかる。まんまこのとおり実装しないことにはどうにもならないんだよね。で、それを経済学の視点で解釈しようとするのが面白い。
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脳波に連動して金額が変化するお金とかがあればいいのかな。