chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

高付加価値な事業とは何ぞや

 
ネタ元:
デフレ論争の終わり
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51671394.html

本社機能や高付加価値の事業を日本に残す一方、コモディタイズした製造業は新興国に移転して国際分業をはかる。

 
で、「高付加価値の事業」とは何ぞや、と思ったわけだ。
 
一般的なイメージで言えば、アップルや任天堂は 「高付加価値の事業」をやっている会社なんだろう。でもそれって、世の中の余ったお金が、たまたまそういう会社に吹き溜まりみたいに溜まってるだけなんじゃないの?。高付加価値な事業、という割には、アップルや任天堂がつぶれたって、社会全体としては大きな支障は無いよね。それって本当に価値があると言えるのかい?iPhoneが無いと困る?ゲームが無いと困る?無いなら無いで、どうとでもなる事しかやってないじゃん。
 
価値の源泉は行動にある、とすると、「高付加価値」とは、「より沢山の人の役に立つ行動」とほぼ同義だと理解できる。単に利益率だけで付加価値が測れるのでは無い。たとえ利益率が低くても、「沢山の人の役に立つ行動」は「高付加価値」と言われるべきだ。
 
「東大卒は高付加価値な事業をやれ」っていう話なら別にいいのよ。産業構造のピラミッドの頂点を、そういうエリートグループが占めるのには、それなりの合理性があるだろうから。そして、ピラミッドの頂点での労働は必然的に「高付加価値」なものになる。たくさんの人に影響が出るからね。
 
しかし、日本全体の経済について議論しているときに、「日本は高付加価値な事業をするべきだ」と言われてしまうと、ちょっと待てよ、と思わないか。だって、日本人全員が東大卒になることは出来ないし、日本人全員が任天堂の社員になることも、日本人全員がアップルの社員になることも出来ないのだから。日本人の半分は、偏差値50以下の凡人orDQNなのだから、その前提で、それでもなお経済に活力をもたらすにはどうすればよいか、という話じゃないと意味が無い。
 
「日本は中国より高付加価値な事業をするべきだ」これはどうだろう。こう言い換えてもやはり問題がある気がする。そこにあるのは傲慢なナショナリズムなのではないか。基本的な個人の能力というのは、中国人も日本人も大した違いはない。あるのは、社会構造の違いだけだ。
 
という事で、次に出てくるのが「構造改革」というバズワードだ。
 
IBMで最も成功した女性の1人が話す、自社の“変革への取り組み”とは?
http://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/20110201_423986.html

価値のない活動、不必要な活動、適切ではない活動を特定し、それを排除していく取り組みだ。そこで生まれたリソースを、成長市場、価値のある市場にまわしていくことになる

これは、高付加価値な事業だけでなく、コモディタイズした製造業にもそのまま応用できる話であり、応用範囲が広い。漠然と「高付加価値な事業をやりましょう」なんて言うよりはよっぽど筋がいい。
 
しかし結局、「価値とは何か」「価値のある行動とは何か」という話に行き着いてしまう。なぜ日本で「構造改革」がバズワード化してしまうのかというと、日本人の「価値観」というものが揺らいでいて、「そもそも何に価値があるのか」という事がよく解らなくなってしまっているからではないか、と思われる。お金か?お金さえあればいいのか?それとも土地?家?学歴?収入?安定?地位?名誉?本当に????
 
何に「価値」があるのかが解らないのでは、高付加価値もへったくれも無い。