chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

子供の頃のトラウマとしての原発

 
震災からもうすぐ1年ということで、原発に関係する記事がまた目立ち始めている。
 
経済的な理由による良し悪しと、科学的な、あるいは哲学的な理由による良し悪しと、個人の好き嫌いの問題は、区別すべきであるとは思うが、最終的に、現実は1つであるからして、どれを優先し、どれを我慢するか、というのは、非常に難しい問題だ。
 
個人的な好き嫌いの話で言えば、私は原発は嫌いだ。なぜ嫌いになったかというと、私の実家、すなわち私が生まれ育った田舎の近くに原発があり、子供の頃にはアメリカのスリーマイル島の事故(1979年)が大きく報道され、「もし、実家近くの原発で似たような事故が起こったらどうなるのか」という事を子供心にも考え、恐怖に怯えた経験があるからだ。子供の話である。理屈で大丈夫、などといったって、子供はただならぬ大人たちの気配を感じ取って、ただただ怯えてしまうしか、為す術がなかったのだ。
 
何が怖いって、仮に膨大な量の放射性物質の漏洩・拡散事故が10km先の原発で起こったとして、必ずしもそれが爆音のような、解りやすい形で村の人々に知らされるわけではないと言うことだ。今、この時だって、実は数時間前に起きた事故の放射性物質を自分達は浴びていて、その事を、後になって知らされる可能性がある。(飯舘村ではそれが現実になってしまった。)そんなことを、当時、子供心に、1人で風呂に入りながら考えていたのを覚えている。
 
結果的には、実家近くの原発は、かれこれ30年以上も、大きな事故もなく稼働し続けてきた。子供の頃の心配は杞憂だった訳だが。
 
ちなみに万一、実家近くの原発で、福島級の事故が起これば、半径20km圏内ということで実家の両親の避難が必要になるのはもちろん、風下なので定住することも当分出来なくなるだろう。そういう訳で、福島の状況について「明日は我が身かもしれない」と重く受け止めているつもりだし、次の大震災がいつどのような規模で来るのかという地震予測に関する話にも、無関心では居られないわけだ。
 
こういう状況で、原発を好きになれと言われても、無理。好きか嫌いかで言えば、原発なんか全て無くなってしまえばいいのに、と思っている。それぐらい嫌い。
 
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ヒステリックに反原発を唱える人たちというのは、なぜあぁなってしまうんだ、全然合理的じゃないじゃないか、というツッコミは、確かにそのとおりなのだ。なんだが、私は、「彼ら/彼女らにも、子供の頃の、原発にまつわる嫌な思い出でもあるのだろう」と想像する。子供の頃に嫌な思い出がある人と、ない人とで、現実に事故が起こってしまった時の反応がこれほどまでに違ったとしても、それはしょうがないんじゃないか。
 
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懸念されるのは、今の子供達が、この事故をどう受け止めているかということだ。それはそのまま、数十年後の原発行政の行方を左右する。為すがままに放置しておいたら、原発のことをヒステリックに騒ぎ立てる人々は、まだまだ増え続けるだろう。それでは冷静な、前向きな議論に成らない。そこは改善していかなくてはならない。
 
 

 
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