chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

「発達障害」という言葉の背景について

 
ネタ元:
SF評論家藤田直哉発達障害は個が大事というイデオロギーの矛盾が露呈するのを糊塗するために発生した」
https://togetter.com/li/1200085

言い過ぎかもしれないが、発達障害人格障害は、「個が大事、個人が大事、自由が大事、幸福を追求するのは大事」というイデオロギーの矛盾が露呈するのを糊塗するために発生した障害みたいな部分あるのかもな。

「認める個性」「認めない個性」、「実現していい自己」「実現してはいけない自己」がなぜかあり、それを判断しているのは社会(医学、医療・福祉制度も含むよ)。……たぶん、「個性が大事」「自由には価値がある」という理念の方に欠陥がある。「個性」とか「自由」とか「自己」の辺りに。

 
この指摘、自分はめちゃめちゃ同意する。よくぞ言ってくれたって感じ。
これに対して、医療に詳しくも無い人が公の場でこういう事を言うなという人もいる。
この人は、何を心配しているのだろう? その心配こそが、病気の根っこであり本質なんじゃないの?
 
たとえば、猫が言葉をしゃべれなくても、それを「発達障害」という人はいない。猫とはそういうものだ、と人間が勝手に認知しているからだ。
 
たとえば、虎が人を襲っても、それを「虎格障害がある」とは言わない。虎とはそういうものだ、と人間が勝手に認知しているからだ。
 
たとえば、胸がぺったんこの成人女性が居たとする。この女性は「発達障害」だろうか? 今の所、障害とは認められていない。誰も困らないからだ。もし、生まれたばかりの赤ん坊に栄養を供給する手段が母乳しか無かったら、何らかの病名が付けられて治療の対象になっていたかもしれない。そうならずにすんでいるのは、現代ではその代替手段を容易に入手できるからにすぎない。
 
たとえば「コミュ障」と言われる人も、仕事が農業や職人であったなら、ほとんど何も困らずに普通に生活できるはずだ。仕事の中で他人とコミュニケーションする必要が無い仕事というのも存在するわけなので、そういう仕事であれば「コミュ障」は何も問題にならない。
 
たとえば戦争の最前線であったなら、人を殺す事ができない人は困った存在になるだろう。人を殺せる人が重宝され、殺せない人はなんらかの障害があるとみなされることだろう。
 
たとえば、山の中や無人島に行って、1人で完全自給自足の生活をするならば、「発達障害」や「人格障害」などという病名には何の意味もなくなる。1人で自給自足したのでは、病気で早死にするかもしれないが、それはそれで、その人の人生だ。
 
ひるがえって、現代社会の「発達障害」や「人格障害」って、たまたまそれが現代社会にとってどうかというだけの話でしか無いんじゃないか。それってまったく相対的な物で、社会の在り方が変化すれば、その認識も変化する。長い人類の歴史の中で、なぜそういう人たちが遺伝的に淘汰されずに現代まで残っているのかといえば、そういう人たちが居てくれた方が具合が良い時代が過去長い間続いてきたからにほかならないと考えるべきだと思うんだよね。
 
ほんの100年ぐらい前まで日本では人口の7割以上が農家だったと何かで読んだ気がするんだが、農業をする上では、「発達障害」や「人格障害」という病名は、多くの場合、無用のものになるだろう。自然相手の仕事の場合、どうでもいいからそんなこと。
現代のそれは、その時代の名残りなんだろう。社会の有りかたの方があまりにも急速に大きく変貌してしまったという事の方に、問題の本質があるんじゃないかと思うんだよな。そういう、本人のせいではない、時代の流れの中で、迷惑な存在になってしまった人たちに勝手に病名を付けて治療の対象とするというのは、まぁ釈然としないものはあるよな。