chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

キズナアイ問題で考えた事

キズナアイ問題で、もやってたことメモ
 
 
全体主義か、個人主義
 
全体主義を採るならば、何らかの指針に沿って言論統制すべき、という発想になる。漫画やアニメやキズナアイのようなキャラクターも言論統制の対象に入るだろう。
 
個人主義を採るならば、何を描いて何を発表しようが、その人の責任だし、それによって受け手が影響を受けるか否かもまた受け手の責任だ。つまり、言論統制なんて余計な御世話だ、という話になる。
 
今の時代というのは、個人主義が強くなりすぎて、少し全体主義側への揺り戻しが起きているのかなと思う。キズナアイ問題はその揺り戻しの中で起こった摩擦のようなものだったんだろう。
 
大人に関しては、個人主義、個人責任という話も成り立ちうるが、では子供の教育についてはどうだろう。これも、個人主義を採るなら、全面的に親の責任という話になる。キズナアイを見せたくないなら、TVを子供に見せるな、インターネットやスマホを子供に使わせるなという話になる。一方、学校というのは完全に全体主義の下にあるものだが、それについて個人主義の側が「学校を無くせ」とは言わないという矛盾はあるのだよ。もっとも、自己責任で登校拒否する人が増えている訳ではあるが。
 
つまり、今の世の中はどっちか両極端じゃなくて、適当なところでバランスを取りながらやっているわけで、そのバランスについては常に議論があってしかるべきだし、そういう意味ではキズナアイをネタにした一連の炎上にも、意味があっただろうと思う。
 
 
・美人コンテスト問題
 
美人コンテストに例えると、この手の話はさんざん議論されてきた話である事に気がつく。キズナアイは、ある種の美人コンテストの勝者なのである。美人コンテストの勝者の栄誉を傷つけるような事を言ったら、美人コンテストに投票した人達からバッシングを受けるのは当然だ。しかし、それは「美人コンテスト」が世の中に必要な物なのかどうかとは別の話だ。実際、バッシングを受けて中止される美人コンテストも増えているようだ。
 
これは根の深い問題だよな。「美人コンテスト」がある種の差別の原因になっているのではないかと事例を挙げられれば、それを否定する事は難しい。しかし、「美人コンテスト」を否定する事は、世の中の競争を否定することにもつながり、それはそれで変な話なのである。そりゃまぁ、「競争の無い、皆が平和に暮らせる世界が理想なのだ」という信条を持っている人も要るだろう。確かに、そういう世界線も有りえたのかもしれない。しかし、少なくとも現代社会は競争のもとに発展してきたという現実の中で、その恩恵を享受しながら、競争社会を否定するのは矛盾してやしないか。競争社会の勝者であるキズナアイを否定するのは矛盾してやしないか。
 
競争によって悲劇が生まれるかもしれないとしても、だからといって競争を無くすべきではないと思う。
 
同時に、それは競争の敗者を放置して良いという話でも無い。敗者にも幸せになる権利は有る。現代社会においては、そこに問題が有るのだろうと思う。敗者が幸せになる権利をどう実現するのか、そこに論点を絞るべき。というのが自分の結論だ。