chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

論証は弱気な人に似合わない

 
論証ネタ、ぐるぐる考えてしまって、結果、すごく凹んだ。
思い出せば、学生の時の数学の証明問題とか、めちゃめちゃ大嫌いだった。なんで俺は論証とか証明とかが、こんなに苦手なんだろう。逆に、非論理的なこととか、無駄なこととか、ナンセンスなこととか、大好き。
 
・・・と考えていて、話が飛躍するけど、人生というものを一点の曇りもなく肯定できるような人生観の持ち主にしか、論証とか証明とかいう行為は、似合わないものなんだろうなぁと思った。
 
「なんで俺、生まれて来ちゃったんだろ」とか、「別に、死ねないから生きてるだけだし」みたいな屈折した人生観の人にとって、「○○と○○の関係は○○であるからして〜」みたいな議論は、・・・なんといえばいいのか
 
極端な例の方が解りやすいな。
たとえば環境問題について論じるとき、「人生というものを一点の曇りもなく肯定できる」というタイプの人には、具体的に自分たちが今、なにをすべきかということを、緻密に理論的に積み上げることができそうだ。
 
翻って、自分の存在理由に懐疑的な人は、「人類が絶滅すれば、一番環境にやさしいんじゃね?」みたいな、ミモフタもない話を思いつく。「人類が絶滅すれば、一番環境にやさしいんじゃね?」という考えが間違っているのか、あるいは正しいのかを、論証するという行為も、もうどうでもいい。退廃的な空気の中では、論証は無力。
 
自分の存在理由に懐疑的な人であっても、いざ自分が死ぬとなったときに、心の底から大喜びする人なんて想像できない。だからこそ、そういう人が、理論を積み上げることにおっくうな理由は、理論を積み上げていくと、その結果、自分なんか存在しない方が良いという結論に、ひょっとしたらなってしまうのではないかという直感的な不安というか危険を感じるからのような気がする・・・少なくとも俺の場合。
 
「人生というものを一点の曇りもなく肯定できる人」は、「お前なんか死んだ方がましだ」なんてひどいことを言われても、はねかえすことができる。
「自分の存在理由に懐疑的な人」は、「お前なんか死んだ方がましだ」なんて言われたら、本気で凹む。しかもそれが論理的に考証を重ねた結果の結論だったりしたら、救いようがない。非論理的なこととか、無駄なこととか、ナンセンスなこととかが好きな理由は、そういうことが許容される世の中なら、自分みたいな無駄な存在もまた、許容されると思えるからかもしれない。そういう思いやりで、無駄を用意しておいてくれる人がいるのなら、俺は感激して涙が出るほど喜んでしまうよ。
 
論理というのは、道具でしかない。包丁が料理を作ることもできれば、人を刺し殺すこともできるように、論理は人を救うこともできるし、殺すこともできる。その危うさに無自覚なまま理論を振りかざすのは、とても危険。
 
論理的に正しいことが、人を救うとは限らない。そのマイナス面に無自覚な人の話というのは、どうも苦手だ。