数日前の日記でこんな事を書いたのだけど、
http://d.hatena.ne.jp/chintaro3/20080524/1211628963
「お前らはトリアージのお陰でこんな豊かな生活ができてるんじゃないのか」という問いに対しては、はっきりNoと言える。
「豊かさとはなんぞや」というと、これが人によってまちまちなわけだ。
だからこの文章は、「自分のイメージする豊かさについては」という限定的なものに、なる。
なぜ「はっきりNoといえる」のかについて、何にも説明してないのは、やっぱ良くなかったかなとも、ぐるぐる考えていて。このままほっておくと、たぶん自分でも「なんでこのとき断言できたんだろう?」と忘れてしまいそう。
何を言いたかったかというと、日頃の経済活動のなかでの取捨選択という行為は、それ以前に選択肢が用意されているからこそ、できることだよね、ということ。
じゃぁ、その選択肢を用意したのは誰かといえば、クリエイティブに色々な物やサービスを生み出す人が居たことを忘れちゃいけない。
「経営者の適切な取捨選択により世の中は豊かになったのだ」というよりその前に、「クリエイティブな人たちのお陰で経営者は取捨選択できる」という側面があるということだ。別の意味での豊かさを用意してくれる人が、予め存在したということを忘れてないかと。だから「はっきりNoといえる」と書いて、バウハウスを紹介した。
例えていうなら、「医者のお陰で命があるのではなく、母親が生んでくれたから命があるんだ」ということを忘れるなと言いたい訳。
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ただまぁ、最近の世の中のニュースというのは、純粋にクリエイティブな活動をする人よりも、「何を捨てるか」ということの方に、より世の中の注目が集まっているように感じる。
老人医療の問題とか、財政再建で何を切り捨てるかとか、身近なところではゴミの分別とリサイクルの問題とか。
昔は、物を作りさえすれば単純に世の中が豊かになると信じることができた。
でも今は、何かを作って手に入れたなら、代わりに何かを捨てなくてはならない。そのとき、捨てるものより新たに手に入れるものの価値の方が上なのか?と言われると、なかなか微妙なことが増えた。客観的にはそうでも、長く使ったものには長く使っただけの思い出とか思い入れがある。それを捨てていいのかという。
かくして、新たに物やサービスを作るより、「何を捨てるか」という方が深刻な、物余りの時代になった。そこで物作りが以前より軽んじられるようになり、一方で取捨選択が重要視される時代に、変わってきたんだなと感じる。
それはひょっとすると、少子化、子供なんか要らないという人が増えてしまったこととも、リンクするんだろうか。