chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

事実と価値

 
ニセ科学でヒトは死ぬ --- 地下生活者の手遊び
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090221/1235152054

いわゆるニセ科学ってのは、事実と価値がぐちゃぐちゃに一体化しちゃっているものなのですにゃ。

 
的確な表現すぎてびびった。
ニセ科学でヒトは死ぬ」の反論として、「科学でも人は死ぬよ?」というベタなツッコミは誰でも思いつきそうだが、そこはすでに「事実と価値がぐちゃぐちゃに一体化」の罠に片足つっこんでる状態。
 
例えば原子力。これ自体は非常に高度な科学で、多数の実証実験と理論の積み重ねによって成り立っているという「事実」。それに対して、人類にとっての原子力の「価値」とは?。 ここで「事実」と「価値」をぐちゃぐちゃに混同して、「原子力を研究するなんて人道的にけしからん」というような主張は、ありがちだね。 科学者の立場からすれば、「原子力の研究」という「事実」と、それを「利用することによって得られる功罪」という「価値」は分けて論じられるべき、となる。・・・で、科学者の立場からすれば、アンチ原子力信者とニセ科学信者は五十歩百歩に見えるだろう。「事実と価値がぐちゃぐちゃに一体化」してしまっているという意味において。
 
ただここでやっかいなのは、じゃぁそれを研究するための莫大な予算がなぜ捻出されるのかといえば、その「価値」を期待しているからに他ならないという構造があることだ。「事実」と「価値」を混同するな、切り分けて考えろ、という一方で、価値判断を抜きにしては研究費が回っていかないという矛盾。ここに事実と価値の混同が無いと言い切れる科学者が居るのだろうか?。それを決めるのは科学者ではないかもしれないが・・・。ここには批判されるべき問題が山ほど有りそうだし、ニセ科学が付け入る隙を与えてしまっているのだろうと思う。
 
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「事実」と「価値」という話で、ちょっと脱線すると、
たとえば、時給いくら、で働いている人の賃金というのは、「何時間労働したか」という「事実」に対して支払われる。その労働にどのような「価値」があったか、ということは、短期的には給与と関係ない場合が多い。
それに対して、消費者が何かを買うとき、お金を支払うときは、自分にとっての「価値」によって、買うかどうかが判断される。その商品がどのようにして作られたかという「事実」は考慮されない。
 
給料をもらうときは「事実」に基づいて給料をもらい、
お金を使うときは「価値」に基づいてお金を使う。
 
 
おもしろいねぇ。
 
 
で、なんでこれで世の中がうまく回っているのかというと「事実」<「価値」となるような世の中の仕組みを作ってくれる人が居るからである。それは資本家だったり、資本家のもとで働くエリートと言われるような人たちだったりするわけだね。「価値」−「事実」の差額を、投資に対する収益として得ることができ、それをさらに再投資することで経済が発展するということか。
 
さらにいうと、「価値」には2種類あって、金銭的な価値と、本質的な価値。「金銭的な価値」<「本質的な価値」であれば、買った人は喜ぶ。「金銭的な価値」>「本質的な価値」だったら、悪徳商法とか言われて、消費者センターのお世話になることだろう。
まとめると、
 
「事実」<「金銭的な価値」<「本質的な価値」
 
であれば、少ない給料でも人々は満足したサービスを受けることができ、世の中はうまく回っていくと。すごいねぇ。文明だねぇ。
 
農業がなぜ衰退したのかという事をこの構図から考えると、農産物というものは「事実」<「価値」となることが保障されない。わかりやすい例で言えば、食べごろを過ぎて腐る寸前の果物とか。どんなに手間隙がかかっていようとも、もうすぐ腐って食べられなくなる食べ物の価値は下がる一方で、どうにもコントロールしようがない。これは厳しい。
 
そう考えると、冷凍食品てすごい発明だよねぇ、とか考えながら、今日も冷凍パスタをチンして食べるのであった。