chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

もしデジタルコンテンツに寿命があったら

 
ヒントは、NHKの何かの番組でやっていた、こんな感じの趣旨の仮説
「生物の進化の過程において、寿命という仕組みは、性の仕組み(雄雌で生殖する仕組み)と同じ頃に備わったらしい」
寿命があることによって、生物の進化が促進されたんじゃないか、寿命の仕組みには必然性があるんじゃないか、というような話。
あとでソース見つけたら書き換えるかも。
 
 
でだ。
 
今のコンテンツ産業というのは、例えば映画なら、チャップリンの頃の古い作品から現在に至るまでの非常にたくさんの作品をビデオ、DVD、etc.で非常に安い料金で見ることができる。この状況はおそらく、人類の文明が崩壊しない限り、この先の未来もずっと視聴可能でありつづけるだろう。デジタル化のお陰で、これらのコンテンツはいわば「永遠の命」を得てしまったわけだ。
 
権利保護の期間についての議論において、興味深いところは、いずれも最終的には全てパブリック・ドメインとなることで合意が取れているかのように見えることだ。これはおそらく、大昔の作曲家や小説家、脚本家などの作品がそのように扱われてきたので、デジタルコンテンツも当然その流れを踏まえるべきもの、と考えられるのだろう。
 
もし、こういう作品にも「寿命」という概念を導入したらどうなるだろう? ある時期が来れば、どんな世界的名作であろうとも、封印して視聴不能ということにしてしまうのだ。
 
これはデジタルコンテンツに限った話でもなくて、弊害が既に顕著化してしまっている例として、オーケストラの楽曲を挙げることができる。オーケストラのための交響曲などの場合、既に歴史的な名作が山ほどあるために、現代の作曲家の活躍する余地というのは大幅に狭められてしまっている。オーケストラや観客が、昔の有名な作品を好むために、若手の無名の作曲家が活躍する場があまりに少なくなってしまい、作曲家として食っていくことができない場合。この問題を、単に「その人の実力不足」と切り捨ててしまっても良いのか?構造的な問題がそこにあるのではないか?
 
で、これに類する問題が、この先、あらゆるところで出てくる可能性があるんじゃないかな、と。
 
若手の活躍のために古い名作は寿命を決めて封印してしまえ、というアイデアは、暴論で有り得ないとは思うのだけれど、・・・じゃぁ、過去の名作が、永遠の命を得る一方で、未来のクリエイターのやる気や生きがい、活躍の場を奪う結果になるかもしれないとしたら、それは本当に善なのか? 摂理に反してないか? 冷静に、よく考えてみようぜ。