chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

「本質的な価値」というものは、人々の行動の中にある

 
デフレとかインフレとか、為替とかの話題の中で、金額が必ずしも物事の価値に比例するとは限らないという問題がある。物事の「本質的な価値」と、「金額」がリンクしないのならば、表面上の値上がりとか値下がりとか、貨幣供給の大小という問題には、そもそもどういう意味があるんだ、という話になってしまう。 
 
ということで、「本質的な価値」とは何か、という事を自分なりにじっくり考えてみた。
 
例えば、今話題の尖閣諸島。「尖閣諸島」には、何か本質的な価値があるのだろうか?。人間本位に考える限り、それはNoだ。例えば中国にとっての尖閣諸島の価値とは、そこに眠る地下資源であったり、軍事費予算UPのネタとしてだったり、あるいは外交カードの1つとして使える、という事なのであり、それがたまたま、今回は尖閣諸島という場所だった、という事に過ぎない。
 
では、尖閣諸島に眠る地下資源には、なにか本質的な価値があるのだろうか。そこには条件が付く。誰かがそれを掘り出して、工業資源として利用して、誰かの日常生活に役立つものになって初めて価値があるものとなる。もしだれも掘り出さないのであれば、その地下資源に価値は無い。地下資源の価値は、「誰かがそれを掘り出す」という行為のオマケとして付随してくるものにすぎず、本質的なものではない。本質的な価値の源泉は、この場合「地下資源を掘り出す」という行動の中にある、と考えられる。

これを一般化すると、「本質的な価値の源泉は、何がしかの行動の中にある」となる。
さらに突き詰めると、ちょっと飛躍する気がするが、「本質的な価値というもの自体が、何がしかの行動の中にある」という所に行き着くことが可能な気がする。
 
考えて見れば当たり前の話で、これを身の回りの物事に当てはめれば例外など無いことに気がつく。経済の話題の中心である「お金」でさえ、それは誰かの何がしかの行動を伴うときに、初めて価値の有るものになる。
 
ここで重要なのは、それが「ただの価値」ではなく、「本質的な価値」だということだ。「本質的な価値」というのはお金にあるのではなく、それを取り巻く「人々の行動」の中にあるということだ。
 
それならば、経済活動が名目GDPや実質GDPではなく「本質的な価値の増大」を目標とするならば、そのカギは人々の行動の中にあるという事にもなる。何を今さら当たり前のことを、という気がしないでもないが、これは改めて確認しておくべきポイントだと思う。
 
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「本質的な価値というものは、人々の行動の中にある」とは言っても、どんな行動にも価値が有るわけではない。価値のある行動と、価値のない行動がある。この中で、「お金」というのは、「行動の価値」を測る指標として機能していることが解る。このことは、あらゆる金銭的コストが最終的には全て人件費として消化されるという話とも矛盾しない。
 
では、この文脈で見たときに、「中央銀行が貨幣の流通量をコントロールする」という行為には、どんな意味があるのだろうか?
 
中央銀行には貨幣の流通量をコントロールする機能が任されているが、一方で貨幣は人々の行動とも密接な繋がりがある。だとすると、貨幣をコントロールするということは、間接的に人々をコントロールしているということだ。そんな権限が中央銀行にあるのか?あっていいのか?という疑問が湧いてくる。
 
1つ考えられるのは、例えば人口の増減に合わせて貨幣の流通量を増減させる、という話、これなら解る。人口の増減の問題は個人でどうこうなる問題ではないが、国として人口が2倍になるなら貨幣の流通量が2倍になるべきだろうし、人口が半分になるなら貨幣の流通量も半分になって然るべき。これは自然にまかせておいてもお金が自分で勝手に自己増殖したり死滅したりするわけではないので、人為的なコントロールが必要であり、そのための中央銀行は必要、ということになる。
 
では、人口の増減をほとんど伴ってないのに、それ以上に貨幣の流通量を増減させるべき場面とはどういう状況か。この話の流れの中では、「人々の行動」の量や中身が変化した時には、それに合わせて増減させるべき、となりうる。問題は、「人々の行動の量や中身」をマクロな視点で客観的に金銭評価する手段など、現状は無いという事だ。しかし、ここが曖昧である限り、日銀が取っている政策の何が正しいのか、何が間違っているのかという議論は全く前に進まないだろう。
 
つづく