chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

変質するコミュニケーション

 
予め断っとくと、私のブログはコミュニケーションを目的としてない。強いて言うなら自分との対話・・・昔の自分と今の自分、今の自分と未来の自分・・・が目的。
 
ある程度纏まったエントリに関しては、検索エンジンに何がしかの情報を提供する事も目的。だから検索エンジン上の立ち位置重要。 将来的には検索エンジンの重要性が下がっていきそうな雰囲気なので、そうなったらまた違う事を考えるかもしれない。
 
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本題。
最近、気持ち悪いなーと思うのことの1つが、投げっぱなしのツイッターツイッターっていうのは、基本は投げっぱなしで、それを受け止めてくれる人が居るかどうかはひたすら運まかせだ。受け止めてくれる人が居る場合は良いのだが、投げっぱなしが常態化している人を見るのは、なんか気持ち悪い(自分もその1人なんだが)。それがオッサンならしょうがないかと思えるが、中高生がそういう状態になってたら、おいおい、大丈夫か?と言いたくなる。「独り言がむやみに多い状態」というのは、精神的に何か問題を抱えている場合が多いから。
 
中高生が多いSNSなんかはもっと顕著で、見知らぬ子供同士がネット上で出会ってうまく友達関係になって交流を深めるというのは、いろんな意味で高度なスキルが必要。しかし実際には、表層のすごく浅いところで形だけのメッセージをやり取りしてる様子が目に付く。なかなか身の入った言葉のキャッチボールにならない。
 
それはコミュニケーションなのか???
 
そりゃ最初の人間関係は「はじめまして」から始まって、徐々に交流を深めていくものなのだが、ネット上では人の出入りが多すぎるために、常に「はじめまして」の連続となってしまい、何時まで経っても交流が深まらない、という状況が生じうる。すると、そこで交わされるメッセージはコミュニケーションと呼ぶに値するものなのかどうか疑問になってくる。だって、いくつかの定型文を組み合わせればだいたいその場がしのげてしまうんだもの。初対面の人を相手に、いきなりマニアックな話題も出せないだろうしさ。
 
限られた人間関係で構成されるリアルな生活であれば、相手の容姿だったり表情だったりで、積極的にコミュニケーションを取ろうとしなくても相手の様子を察することができる。その上で声をかけるなら、声をかけることができる。しかし、見知らぬ人どうしで構成されるSNSは、「容姿や表情から相手の様子を察する」ということができない。もっと言うと、SNSは「相手の容姿や表情から相手の様子を察する能力が育まれない場所」とも言える。それ抜きでコミュニケーションというものが成り立つだろうか?