chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

過去の人の権利・未来の人の権利

 
民主主義というのは、基本的に今生きている人の権利を反映するものだ。
 
既に死んでしまった人は投票できないし、将来生まれてくる未来の人も投票できない。政策に口出しすることも出来ない。
 
しかし、だからといって、死んでしまった人の遺志を汲まなくても良いという訳ではないはずだし、未来の人の事を何も考えなくて良いという訳でもない。
 
原発推進か否か、という議論では、このあたりの「現在生きていない人の意思や権利」をどう考えるかという事が、意見の相違の原因になっているケースが、一部にあると思う。福島の原発の被害者に対して、1人数千万の賠償金を払えば事が済むかのような事を言っている輩が居るが、そういう連中は「そこで今までずっと暮らして来た過去の人」や「これから暮らすはずだった未来の人の事」、・・・「過去の人の権利」「未来の人の権利」というものを完全に無視してしまっている。
 
代替に火力発電、というのも問題がある。そうでなくても現代人は毎日湯水のように原油等の地下資源を浪費している。楽観的な観測としては、まだ今後数百年は何とかなるのではないかと言われているが、いつかは枯渇するだろうという見解が多い。さてそこで、地下資源の枯渇に立ちあうこととなった未来の人々は、数百年前に湯水のように原油を浪費していた人々・・・つまり私たちのこと・・・を、はたして何と言うだろうか。 
 
現在の法律では、地下資源というのは、それを採掘する権利を所有する人のものである。その所有者は必ず生きている人間であり、死亡したら相続されるか、もしくは法人ならば役員が入れ替わる等の対応がなされる。しかし、過去の人の権利とか未来の人の権利とかいうことを考え始めると、例えば原油を採掘する権利を所有している人の本当の権利というのは、どこまで自由であるべきなのだろう?
 
タイムマシンで文句を言いに来る人が居ないからと言って、今生きている人の都合だけで自分勝手に物事を決めていいのか?
 
地下資源の量が有限であり、それを可能な限り長期間にわたって人類が使い続けたいと願うならば、単位時間あたりの使用量は極限まで下げることが、本当は望ましいはずだ。仮に現状のままだと数百年で地下資源が枯渇する、のだとしたら、使用量を1/10に減らせば、期間としてはその10倍、数千年持つということだ。もし今、地下資源の使用量を1/10に減らすという英断を現代人が下すことができたなら、千年後の人々は我々に感謝するだろう。それをしなければ、憎まれるかもしれない。
 
そういう時間軸で物事を考え始めると、今やるべきことというのがかなりクリアになる気がする。少なくとも、GDPの成長ばかり気にして経済失速だとか騒ぐ連中はクソ食らえだ。