chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

価値観の違いはなぜ生まれて、なぜ悲劇を生むか

ネタ元:
gahalog.2chblog.jp
 
これに付いているブコメが、「意味不明」とか「わけがわからん」とかいうのが多くて驚いている。いや、意味ぐらい解るだろ。ただ、価値観が普通の人とはかなり違っていて、悪意を持っていうなら「価値観が狂っている」。しかし、「何に価値があり、何に価値が無いと考えるか」というのはとても奥の深い問題で、ただ「頭がおかしい」で済む話じゃないな・・・・と考え直した。
 
一般的な価値観としては、無名の、ほぼ素人の著者が書きなぐった小説やシナリオに経済的な価値は無い。しかし書いた本人にとっては人生を賭けるほどの価値のあるものだったかもしれない。「お前が思うんならそうなんだろ、お前の中ではな」ってやつだ。今回の件でいえば、客観的に見れば、例えば裁判に訴えた場合に、この掲示板の書き込み主の主張が通る可能性は全く無いと言って良いはずだ。この2chの書き込みを裏付けるような客観的な証拠が出てくる可能性はかなり低いし、仮に証拠があったとして、何らかの賠償責任が認められるほどの話なのかどうか疑わしい。ただ、客観的な事実&社会的な判断と、個人の価値観は別問題で、だから私刑が起こる。
 
ここで、「特殊な価値観を持つ人」=「頭のおかしい人」なのかというと、そうでもないというのがめんどくさい話で。たとえばエルサレムという宗教上の聖地を巡って、キリスト教イスラム教は何百年も戦争しあい、殺し合いを続けている。現在も決着は付いていない。キリスト教徒でもイスラム教徒でもない我々には全く理解不能な話だが、ではエルサレムをめぐって殺し合いをしている人たちは全員が統合失調症なのか? 違うよな。 ただ、事なる価値観どうしの衝突がそこで起こっているだけなんだ。
 
そう考えると、「多様性は善」などと無邪気に唱えている訳にもいかなくなる。
 
価値観の違いが引き起こすトラブルは多い。
鉄道オタクが引き起こすトラブルはしばしば話題になる。鉄道写真のために他人の庭の木を勝手に伐採したりする。トラブルを起こした本人にとっては鉄道写真にこそ価値があり、庭の木なんてどうでもよい訳だが、一般常識としてはそれは認められない。鉄道オタクが非常に狭い世界に住んでいて、一般常識には無頓着なことによって、そういうトラブルが引き起こされる。「鉄道オタクは頭がおかしい」といって片づけられてしまうケースは多い。
 
では、労使関係で起こるトラブルは? 会社の社長と従業員では見ている世界が違いすぎる。その結果、価値観も大きく異なっていってしまう。「その利益は誰に分配されるべきか」という話と、「その庭の木は伐採されるべきか否か」という話は五十歩百歩の話なんだよ。そして労使関係のトラブルが起こる。これは、どちらか一方の頭がおかしかったせいで起こるのかといえば、それは違うでしょ。「見ている世界が違いすぎる」「価値観が大きく異なる」っていうことがトラブルを育む土壌になってしまっている訳で、そういう環境がありさえすれば、似たような問題はどこででも起こるんだよ。
 
インターネットで「見たいものだけを見る」という風潮は、「見ている世界が違いすぎる」「価値観が大きく異なる」という状況を生みやすくする。それは、より大きなトラブルを生む原因になりうる、と考えなくてはならない。「自分さえハッピーなら世間知らずでも良い」という訳にはいかないのだよ。
 
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京都アニメーションの作品は、ハルヒと軽音しか知らない。ユーフォは3分ぐらい見てやめた。痛くて見てられなかったから。これらの作品で気になっていたことは、社会性の無さだ。父母とかおじいちゃんおばあちゃんは、話の筋に関わる形ではほぼ出てこない。当然、無敵の独身中年男性なんて出てこない。この話の面倒臭いのは、なぜそうなったかといえば、メインの視聴者群の1つである中年の独身男性のアニメおたくが、そういう現実逃避できる作品を求めるからだ、という側面があり、一方ではそういう作品に不満を募らせる同世代も居るという話だ。
 
(7/30 追記。まさにこういう構図の話:
ameblo.jp
)


まぁ、アニメ作品なんて見切れないほどある昨今、見たくない作品は見なければ良いだけの話ではあるのだが、片やディズニーは、もはや白人の美男美女ばかり登場するような映画は作れなくなってしまった。ポリティカルコレクトネスというやつだ。ほどよくいろんな人種・いろんなタイプの人を登場させなくてはならない状況になって久しい。
 
では、日本のアニメも、ディズニーに倣ってポリティカルコレクトネスでいろんな人を登場させるべきなのだろうか。アニメの中に、無敵の独身中年男性も登場させるべきなのだろうか。これは、アニメは誰のものなのかっていう話で、「作家のもの」「監督のもの」という立場を貫くならば、そういう事に一切口をはさむべきではないという話になる。これまではそうだった。では、なぜディズニーがポリティカルコレクトネスに配慮しなくてはならなくなったのかといえば、「作家のもの」「監督のもの」という以上に、アメリカの文化にとって欠かせないような立ち位置を占めるに至ってしまったからだ、という事だろうと思う。日本のアニメも、日本を代表するようなアニメスタジオだったならば、将来的にはポリコレを考慮しなければならない状況になるだろうと予想される。