chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

「愛主義」って、要するに家庭のことじゃんね。

昨日の考え事で、「権力」に対して「愛」が対抗軸に成り得る存在だ、というところまで来た。で、資本主義に対抗して「愛主義」なんてものが有りえるのかpgrとなったのだけど、それって要するに、「家庭」「家族」のことじゃんね。確かに、「家庭」は資本主義とは異なる、別の原理で成り立っている存在だ。
仕事(=経済)のために、家庭が犠牲になるのはおかしいんじゃないか?というような問題提起は、聞き飽きるほど聞いてきた話。なんだ、そんなところに戻ってきちゃったじゃないか。
 
話は変わって、「エンデの遺言」という昔のNHKの番組を見た

全部で1〜6まである。さらに、続編も2つある。全部見た。
 
問題提起の部分は、私も同感。ただし、その解決策の案として、この番組では「地域通貨」なるものが大きく取り上げられているのだが、それは無理筋じゃないかと思ったというのが正直な所。
「お金とは公権力の断片なんじゃないか」という考え方をするなら、地域通貨というのは、公権力の母体となるコミュニティのサイズが変わっただけに過ぎない。「国家」レベルの公権力が「地域の小さなコミュニティ」というサイズの公権力に置き換わっただけだ。それは個人を抑圧するのには十分なサイズだ。コミュニティが持つ公権力に依存した貨幣は、コミュ二ティからはみ出す人間を救済できないという欠点がある。本質的に、この問題点は地域通貨であっても何ら変わらない。
 
では、地域通貨のコミュ二ティのサイズを極限まで小さくしたらどうなるだろう。最終的には、個人レベルまで小さくなって地域通貨ならぬ「俺様通貨」を誰もが自由に発行できるようになったとしたら。
「俺様通貨」的なものとして連想したのは、いわゆる「肩たたき券」みたいなもの。「肩たたき券」ならば、誰でも発行できるし、コミュニティーの信認=公権力とは無関係なものとして存在しうる。必要なのは、個人の信用。それだけ。
 
 
  
無利子経済の話も、面白いなぁと思った。それって、今の日銀のゼロ金利政策と同じことなのかいね?エンデが生きてたら、日銀のゼロ金利政策を、エンデはどう評価するんだろうね?。まぁ、日銀がゼロ金利でも、家を買時のローンには数%の金利は付くわけで、その金利が馬鹿にならんという話だから、実質的には全然ゼロ金利じゃない訳だが。