chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

教会で考えたこと

今日は、母が生前に世話になっていた協会の礼拝に参加。1年のうち、参加するのは年に1回だけである。
 
自分はキリスト教の信者ではないが、キリスト教を必要としている人が居るという事に関しては理解しているつもり。身近な人が亡くなって、残された人が悲しみに打ちひしがれているとき、仏教では坊さんがやってきて「空即是色 色即是空」と説く。正直な話なのかもしれないが、そんなものなんの慰めにもなりはしないのである。「あなたの大切な人は死んでいません!天国で生きています!永遠の命を得たのです!」と大真面目に説いてくれる牧師のほうが、慰めになる人が居るということは、それはそれで1つの現実なのだ。科学的には、そんなもの空想のフィクションな訳であるが、しかし科学は、悲しみに打ちひしがれる人を慰める言葉を持たないという事実を謙虚に受けとめなくてはならない。 
 
小説とかマンガとかアニメとか映画とか、だいたいフィクションである。世の中には、「フィクションなんて見てもしょうがない。ウソじゃん」とバカにして取り合わない人もいる。しかしそういう人は少数派で、大半の人は、「フィクションはフィクション」として割り切って楽しんでいる。楽しんでいるのであるが、なぜ楽しむことができるのかといえば、そのフィクションの中に、何らかの事実・真実を見出すからなんだろうと思う。その構図というのは、本質的には宗教とたいして変わらないんだろうと思った。
 
ずっぽりマンガやアニメやゲームの世界に浸って生きているオタクは、なぜそれで満足できるのか。口では「もちろんフィクションだと解っているよ。フィクションとして楽しんでいるんだよ」というだろう。しかし本当にそうだろうか。「こんなのウソじゃん、くだらねぇ」と延々言い続ける人が横に居ても、その人はマンガやアニメやゲームを楽しめるだろうか。そんな訳はないのである。
 
要するに、キリスト教の信者も、マンガやアニメやゲームの世界に浸って生きているオタクも、何を信じているかが違うだけで、その構図は同じなんだろうと思った。