chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

メイドカフェの「おまじない」は、なぜ大切か

俺も一応、理系の人間だからさ、最初は「おまじない」なんて無駄だと思ってたのよ。メイドカフェは好きだけど(女の子がかわいいので)、「おまじないはいらない」ってずっと長い間思ってた。
 
・・・・んだけど、途中で考えが変わって、「いや、おまじない大切!!!」派になった。
 
なんで「おまじない大切派」になったのか、改めて説明しようと思うと、うまく言語化できなかったので、改めてちょっと書いておこうと思った。
 
1つは、「おまじないなんて無駄」っていうのは、実はとても危険な思想だ、ってことに気が付いたんだな。「なんなの?無駄なものは無くていいの?そんなこと言ったら、身の周りの物事なんて無駄だらけじゃね?その無駄、全部なくしていいの?本当に?それでお前は本当に人間として生きていけるの?」みたいな。
 
途中の話がめんどくさいからすっ飛ばして結論を書くと、「無駄なものは要らない」という思想を突き詰めていくと、最終的に「そもそも自分なんて生きてても死んでても世の中何も変わらなくね?そんな存在、無駄じゃね?自分なんて死んだ方が良くね?」みたいな鬱思考になってしまうわけだよ。「無駄なものは要らない」は、だから危険なの。
 
そりゃわかんねぇよ。客観的に、理論的に考えて、自分なんて無駄な存在で、死んだ方が良いのかもしれないよ。でも、死ぬのが怖いからしょうがなく這いつくばって半泣きになりながら生きてるわけじゃん。そんな中で、「おまじないの必要性を肯定する世界観」ていうのに出会ったときに、「自分が生きていてもいいんだ」ってことを肯定してくれる感じがしたんだよな。いうならば、自分の存在価値なんて「おまじない」と五十歩百歩なんじゃないか、ってことに気づかされたわけだよ。
 
「おまじないなんて無駄」っていう思考から、「おまじないだいじ!!」っていう思考・価値観に切り替えることで、自分はうつ病から緩解できた気がするのな。メイドカフェの「おまじない」は恥ずかしいことかもしれないよ。けど、ただ単に生きていくことだって、十分に「恥ずかしい」ことなんだよ。おまじないの「恥ずかしさ」を肯定することで、自分が生きていくことの「恥ずかしさ」も肯定できた気がするんだよな。
 
なんか、こう書くと、これはもうある種の宗教に片足突っ込んでるのかもしれないが、独身のオッサンが生きることを肯定してくれる何かが欲しいってのは、それはそれで切実な問題なんだぜ。「おまじない」を肯定することで、人生がちょっと前向きになれるなら、それは実はとてもすごいことで、ぜんぜん無駄なんかじゃない。
 
そういうメイドカフェの「おまじない」が、当時は理系人間だらけだった秋葉原で流行り始めたっていうのは、そう考えると必然だったのかもしれないな。