chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

命日

明日は命日である。
なんか、いろいろ考えることが多すぎて、有休を取った。
40年後、こんなことになっていようとはなぁ。
 
1つ1つが、日々の積み重ね、日々の判断と行動の積み重ねなのだなぁ。
適当に流されてきた人生だったなぁ。
 
ToDo.
済・墓参り
済・実家の除草
済・夏服 半分ぐらいクリーニングに出す
 ・夏服 少し買い足す
 ・キーボードの収納場所を作る
  ・不用品を捨てるorまんだらけに売却
 
 
ヘパリーゼ飲むとちょっと行動力が出る。飲まなかったら寝てばかり。
 
実家の解体予算の件が気が重すぎる。どうしたものか。
でも、どう考えても解体するしかない。
今更手を入れてまた住めるようにするような家じゃない。骨組みがもうあかん。
 

眠い

最近はぐるぐると考え事をすることはすっかり減った。
とにかくいつもねむい。暇さえあればうたたねしているか、本格的に寝ている。
エロ動画を見る時間も惜しんで寝ていたいレベル。
眠いと何をやっても面白くない。何を見ても面白くない。
そういう時は寝るしかない。

映画「君たちはどう生きるか」

こどもの頃から宮崎アニメを見て育った身としては、これを見るのは義務だろうと思ってみてきた。事前の情報はあえてほとんど仕入れずに行った。
 
内容は、表層的にはまぁいつもの宮崎アニメなんだけれど、宮崎アニメの過去作品を匂わせるような要素が多すぎて、ある意味「宮崎アニメ総集編」のように見えた。
表題は「君たちはどう生きるか」だけれども、それっぽい要素は申し訳程度で、どっちかというと「俺はこう生きた」とでも題したほうが良いレベル。「あぁ、宮崎駿さんは、本当にこれを人生最後の作品にするつもりなんだな」というのが伝わってきて、それが辛かった。
 
狙いとしては、この映画をきっかけに、書籍の「君たちはどう生きるか」を読んでくれる若い人が少しでも増えるなら、それで十分だと思ったんだろうな。サギが重要な役で出てきて、宮崎節が展開されるのも象徴的だと思った。自分を詐欺師に重ねているんだろう。
 

メイドカフェの「おまじない」は、なぜ大切か

俺も一応、理系の人間だからさ、最初は「おまじない」なんて無駄だと思ってたのよ。メイドカフェは好きだけど(女の子がかわいいので)、「おまじないはいらない」ってずっと長い間思ってた。
 
・・・・んだけど、途中で考えが変わって、「いや、おまじない大切!!!」派になった。
 
なんで「おまじない大切派」になったのか、改めて説明しようと思うと、うまく言語化できなかったので、改めてちょっと書いておこうと思った。
 
1つは、「おまじないなんて無駄」っていうのは、実はとても危険な思想だ、ってことに気が付いたんだな。「なんなの?無駄なものは無くていいの?そんなこと言ったら、身の周りの物事なんて無駄だらけじゃね?その無駄、全部なくしていいの?本当に?それでお前は本当に人間として生きていけるの?」みたいな。
 
途中の話がめんどくさいからすっ飛ばして結論を書くと、「無駄なものは要らない」という思想を突き詰めていくと、最終的に「そもそも自分なんて生きてても死んでても世の中何も変わらなくね?そんな存在、無駄じゃね?自分なんて死んだ方が良くね?」みたいな鬱思考になってしまうわけだよ。「無駄なものは要らない」は、だから危険なの。
 
そりゃわかんねぇよ。客観的に、理論的に考えて、自分なんて無駄な存在で、死んだ方が良いのかもしれないよ。でも、死ぬのが怖いからしょうがなく這いつくばって半泣きになりながら生きてるわけじゃん。そんな中で、「おまじないの必要性を肯定する世界観」ていうのに出会ったときに、「自分が生きていてもいいんだ」ってことを肯定してくれる感じがしたんだよな。いうならば、自分の存在価値なんて「おまじない」と五十歩百歩なんじゃないか、ってことに気づかされたわけだよ。
 
「おまじないなんて無駄」っていう思考から、「おまじないだいじ!!」っていう思考・価値観に切り替えることで、自分はうつ病から緩解できた気がするのな。メイドカフェの「おまじない」は恥ずかしいことかもしれないよ。けど、ただ単に生きていくことだって、十分に「恥ずかしい」ことなんだよ。おまじないの「恥ずかしさ」を肯定することで、自分が生きていくことの「恥ずかしさ」も肯定できた気がするんだよな。
 
なんか、こう書くと、これはもうある種の宗教に片足突っ込んでるのかもしれないが、独身のオッサンが生きることを肯定してくれる何かが欲しいってのは、それはそれで切実な問題なんだぜ。「おまじない」を肯定することで、人生がちょっと前向きになれるなら、それは実はとてもすごいことで、ぜんぜん無駄なんかじゃない。
 
そういうメイドカフェの「おまじない」が、当時は理系人間だらけだった秋葉原で流行り始めたっていうのは、そう考えると必然だったのかもしれないな。
 

私たちは、自尊心を買っている

世の中には、なんで成り立っているのか不思議な商売というのがある。
 
たとえば「マッサージ」なんていうのがそれだ。中にはその効用が医学的に証明されて保険適用になるケースも一部にはあるようだが、ほとんどは保険適用外だ。すなわち、医学的にはその効用が認められていない。にもかかわらず、長年繁盛しているマッサージ店というのがある。
 
実際、自分もマッサージを受けてみてわかるんだけど、マッサージしてもらったからといってどれぐらい体の具合が良くなるかというと微妙なところで、むしろ「もみ返し」などといって筋肉痛になる場合さえある。単純にマッサージの物理的な効果だけでいうならば、金額ほどの効用はなく、旨いものでも食った方がましに見える。
 
マッサージの効果は、心理的なものの方が大きいし、むしろそっちが本質なんだろう。「マッサージ師さんにこんなに熱心にマッサージしてもらえる自分は価値のある存在なのだ」と思えることが重要なんだな。なんかそういうお菓子のコマーシャルがありましたね。
 
ヴェルタースオリジナル「特別な存在」篇 30秒×2 - YouTube
 
そういう、「自尊心」が商売のキモになっているケースって、思いのほか多いんじゃないか。例えば、なぜ高級車が売れるのかといえば、「高級車を所有することによって自尊心が高まる」という要素は外せないだろう。

コンカフェが繁盛する理由も、「自尊心」がキモだと思う。コンカフェに勤める女の子はかわいい衣装で自尊心を高めることができ、そこへ通うお客さんはかわいい女の子と世間話をすることで自尊心を高められるという構造だ。客は自尊心を買っている。コンカフェでは相手の自尊心を傷つけるような発言はご法度なのだ。
 
コンビニで売っている小さなお菓子でさえ、過剰なほどのきれいな包装が施されている。しかしだからといって包装を簡素化することはできない。過剰なほどのきれいな包装がお菓子に施されていることによって、それを買う消費者の自尊心を満たすことができる、ということが重要なのだ。
 
「自尊心」という観点が無さ過ぎて失敗する店もある。私が見かけたのは、セルフサービスのカレー店で、客が自分でご飯と具材とカレーを盛り付けて、最後の会計だけ店員にチェックを受けるというスタイルのカレー店だったのだが、オープンして1ヵ月も経たずに閉店した。理由は店員が辞めてしまって人がいないから、ということが表向きの理由だが、この業態では合理化があまりにも行き過ぎていて、店員も客も、自尊心を高められる要素が商売の中に全くなかった。店員と客の両方がみじめな気分になる商売なんて、繁盛するはずがないのだ。
 
日本で商売に失敗する人の1つのヒントになるかもしれない。合理化の名のもとに自尊心まで切り捨ててしまってはいけないのだ。私たちはロボットではない。
 

くもり

暑すぎもせず、寒すぎもせず、いいかんじなんだが、ちょっと咳が出てきて、6月だというのに暖房を入れている
 
ToDo
済・いつもの洗濯
済・通帳記帳
済・動画のネタ仕込み
済・メイドカフェに行く

ボーナスが入って、うっかり無駄遣いしそうになったが、12月(冬のボーナス)までの出費予定を計算すると、かなりギリギリか、下手をすると足が出る恐れがあることに気が付いた。危ない危ない。むしろ節約せにゃならん。月収以下で生活できてない。プロジェクトが一段落するまではコミケも無理だ。