chintaro3の日記 

基本、チラ裏です。書いておくと頭の中が整理できますゆえ。

現代社会は、どこを目指すべきなのか

 
ネタ元:
そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていない。--- シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180702/1530518723
 
内容には概ね同意。ただし結論部分の

「ブルジュワの打倒」と書くとマルクス的に聞こえるかもしれないけれども、生殖という観点からみても、ブルジュワは、打倒すべき対象ではないだろうか。


については、確かにこれも1つの解なのだけれども、他の解もあるのではないかと思っている。
 
現代社会は、複雑・高度になりすぎて、ただ「現状維持」するだけのために莫大な労力を必要としている。例えば毎日ペットボトルの生産ラインで働いている人たちは、いくら大量のペットボトルを作ってみたところで、作る端から捨てられていくので、もはやその仕事が、世の中を、より豊かにしているとは言えない。作るのをやめると人々の生活水準が下がってしまうから、それを避けるため、現状維持するためだけに存在する仕事になってしまっている。
 
このような仕事は世の中に非常に多い。今の日本では、大半の仕事がそうなってしまっている。だからみんなが必至で働いているのに、人々の生活は豊かにならず、GDPは停滞したままになってしまっている。そんな中で、高給を取る人が現れたなら、代わりに割りを食って低給になる人も出てくる。それでブルジョワを打倒せよ、なんていう話になってしまう。
 
落ち着いて考えてみよう。人間というのは、最低限、水と食料があれば生きていける。今や、日本で水や食料の生産に関わっている人はごく僅かだが、それで食料不足で飢える人は居ない。お金が無くて飢える人が居るかもしれないが、それは食料生産の問題では無く、お金の問題だ。極端な話、食料の生産・輸入と、それをつつがなく津々浦々の人々に届けるシステムさえ社会的に機能していれば、大半の人々は、年中遊んでたって生きていけるのだ。
 
しかし人々は失業を恐れ、より高給な仕事に就こうとする。なぜか。
 
それは、仕事をしてお金を手に入れなければ食料も手に入れる事ができないという、そういうゲームの中で彼らが生きているからだ。そういう生き方しか知らない。ブルジュワ化とは、そういうゲームの中の話でしかない。ちょっと冷静になって、そのゲームのルールの妥当性について、深く考えてほしい。
 
もし、身の周りにある物全ての寿命が今の10倍あり、そして実際に人々が10倍の期間、それを使うようになったら、世の中はどう変わるだろうか。
自動車は今でもちゃんとメンテすれば20年ぐらいは乗れる。それがもし200年持つようになって、人々が200年乗るようになったら、自動車産業は今よりずっと小さな規模でも不自由なく世の中は廻るだろう。家電製品は10年程度で壊れる物が多いが、それが100年使えるようになったら、家電メーカーで働く人の数はずっと少なくて済む。そこで余った人たちは失業で困ったことになる訳だが、しかし製品寿命が元の1/10の寿命になったところで、彼らの仕事は現状維持をしているだけで、もはや世の中を豊かにすることには役に立っていないということを思い出していただきたい。そして、彼らのための食料が、世の中から消えて無くなる訳でも無いのだ。この失業問題は、解決可能だ。
 
科学技術がどんなに進歩しても、子作り・子育ては人の手によって行われるべきだと私は思っている。つまり、科学技術の進歩によって余った人材は、教育分野が吸収すべきだ。そこを「なんで?」と突っ込まれると、それはもはや宗教みたいなもんなのかもしれないけれども、では逆だったらどうなるだろう? 仮に乳児が成人になるまでの過程を徹底的に省力化・無人化し、最終的に全自動で人を育てるシステムなんてものが仮に実現したとして、そこで生まれ育った人は「人間」なのだろうか??????
 
で、要するに何が言いたいかというと、現代社会のゲームのルールの中で、子供を作って生んで育てる、ということが、社会的に給与のもらえる仕事として定義されてないってのが、決定的におかしいと思うんだよな。公的な子供手当て的なものは今でも色々とあるけれども、科学技術が何のために進歩してるんですか、つったら、究極的にはそういう母親や、子育てのために、社会的な資源を潤沢に回せるようにするため、であるべきだと思うんだよな。子育てをする母親が経済的に不利になるのではなく、むしろ有利になるような社会設計であるべき。子供を産み育てる事がブルジョワへの道であったなら、世の中はずいぶん変わるだろう。